感情という名の、あふれる文字たち つづき(のまえに)

www.youtube.com

 

そのときどき、ハマっている音楽をのせていこうとおもう。

 

今日おとどけするのは、台彎のシンガーソングライター、柯智棠さんのGoodbye&Goodnight。ひとりの夜がさみしいそんなとき、バックミュージックにお聴きください。

この方、わたしとそんなに歳も変わらないが、どこからこんなに奥行きのある深くとろけるような声がでるのかふしぎです。

いつか、このひとの歌を聴くためだけにひとり台湾旅行とかしよう。そしてうっとりしておいしいものをたくさん食べて帰ってこよう。

 

タイトルにはきのうの記事のつづきと題したが、いま感じていることは「とりあえずおなかすいた」です。さっきまで赤坂におり、すてきなカッフェーですてきなボリュームのサンドイッチ、オニオンスープ、コーヒー、オムレツなどなど、わたしがいちばん好むかんじのすてきな朝食をとったというのに、もうおなかがすいてしまいました。それにくわえて眠いので、とりあえず食べるか寝ようかしようと思う。

 

今日、「世界平和のためにわたしはなにをしたらいいかな」と男友達にたずねたところ、「たくさん食べてたくさん寝ることだね。」と言われました。妙に納得してしまった。そう、真の幸福はひとりの幸福から、真の平和はひとりの平和から、幸福と平和は健康な心身から。なんつってな。

 

書きたいことはやまほどあったのに、ひとことも思い出せない。久しぶりに会う友達に、会う前はあれも話そう、これも聞こうと思っていたのに、顔を見たとたん笑ってどうでもよくなってしまったときの気持ちと似ている。

半生をふりかえるというのは、何気に体力と気力をつかうものなのかもしれない。過去とむきあうのは、そういうことだ。だから、意識的にやらないと、古くなったぬいぐるみみたいに、いつまでもじぶんのスペースに、汚いまま、かわいそうなまま居続けることになる。ゴミにもだせず、かといって宝物のわけでもなく、「ただなんとなくとってあるだけ」の思い出たち。なんとなくおかしいな、と思いつつも、違和感がなくなっていく。目の前にはやらなければいけないことがたくさんあるからだ。

それでもたしかに、そこにある。けしてなくなりはしない。埃がつもっていく。ぬいぐるみの目は、あなたをずっと見ている。

過去は怪物にもなるし、宝物にもなる。なんの意味もないこと、偶発的に起こってしまったこと、相手は悪気がなかった(かもしれない)ことを、わたしの脳は脚色・演出して、ドラマティックに仕上げている。タイムマシンがあったら過去にさかのぼりたい。今の目で、今の視点で、人生の岐路のときのわたしを眺めてみたい。

 

それができないから、こうして文字というツールをつかって、脳みそをフルにはたらかせて、過去を観察することをはじめてみた。

 

じぶんでも気が付かないうちに、勝手に「トラウマ」に仕立て上げてしまったことがたくさん、ある。

 

他人にはなんでもないようなことが、わたしには怖くてたまらない。それは逆の立場にしても往々にしてある。

問題のない家庭などあるのだろうか?

 

「各家庭に、はたからみると考えられないような問題があって、それでも食事したり、そうじしたりするのには何の支障もなくて毎日が過ぎて行って、どんなに異常な状態にも慣れてしまったり、他人にはわからないその家だけの約束事があって、どろどろになってしまっても、まだいっしょにいたりするのよね。」

 

吉本ばなな「アムリタ」で、純子さんが言うセリフだ。彼女は主人公の家に居候している、離婚し家庭を失った女性である(たしか)。

このことばにたいし、主人公はこう答える。

 

「どんなにめちゃくちゃでも、バランスさえよければうまく回るってことかな。」

 

そうそう、そうなんだよ…とわたしは深く何度も頷いた。すごかった。わたしが言いたいことがこのふたつのセリフにぎゅっと凝縮されている。濃度が高すぎる。

 

すべてはバランスなのだ。

 

つづく。(中途半端ですが、ごはんと睡眠のため、離脱します)